ラグビー その2 歴史

前回、イギリスのパブリックスクールの体育としてのフットボールが、サッカー・ラグビーの分岐とともに「観るスポーツ」の出発点であったことをお伝えしました。

 

イートン校の手禁止のフットボールがサッカーの源流、ラグビー校の手もOKがラグビーフットボールの源流。

このブログシリーズは、「ラグビーのお勉強」ですのでサッカーについては割愛すべきなのですが、ラグビーとサッカーの分岐がその後の両スポーツの根幹に関わる事なので、もう少し比較します。

 

ラグビー校やイートン校などの出身者は、ケンブリッジ大学など名門大学にも進み、フットボールが大学スポーツとしても盛んになり、競技人口も増加。そこで、ロンドン近郊の有力なフットボールクラブが集まって、統一ルールを作ろうと協議しましたが、「手OK派」と「手ダメ派」が決定的に決裂し、別の競技となったそうです。

 

 

「手はダメ派」の主軸のイートン校は名門ではありますが、創立者のヘンリー6世が70人の貧しい子供たちに教育機会を与えるとして設立された経緯から、サッカーを比較的貧しい人々にも出来るだけ広く普及させそうと、ルールを理解しやすく単純化しました。

 

「手もOK派」=ラグビー校側は現在でもアフリカ系・アジア系の生徒比率が極めて低く入学条件の英語力は流暢なネイティブ級が求められるなど、ほぼアングロサクソン系の貴族層子弟が多いエリート集団だった為か、「フットボールは自分たちエリート階級の遊び」という考えから競技を広く普及させようという気が無く、どんどんルールを複雑化していきました。

 

そして英国貴族階級の伝統思想である「騎士道精神」を受け継ぎ、プレイは激しくしても競技そのものはルールを厳密に守って紳士的にという「ノーサイド精神」と呼ばれる「戦い終われば友」という考え方なども導入されました。

 

 

結果、ルールを単純化し大衆娯楽スポーツを目指したサッカーは、まず産業革命で増大した工場労働者層に浸透しました。読み書きがおぼつかない人や計算が苦手な人にも理解しやすいルールであり、そもそも暴力的な「祝祭フットボール」の主要プレイヤーだった「町の乱暴者達」に「手だけは禁止」として受け入れられやすかった事もあるようです。

 

工場経営者層は、この労働者達のサッカーフットボールを「一種のガス抜き:娯楽」として容認しました。厳しい労働で変にストレスを溜められると、ストライキや賃上げ要求につながるので、工場内にサッカーグランドやクラブハウスなどを整備したそうです。実業団スポーツの源流ですね。

 

 

こうして経営者エリート層はラグビー(ポロやゴルフも含む)、労働者はサッカーというスポーツ階層が構築されました。

 

 

 

そしてサッカーは、欧州各地のみならず欧州各国が植民地にした南米・中東などにも普及していき、世界最大級の競技人口スポーツになりました。(国連の調査によると世界で最も競技人口が多いのはバスケットボール、2位がサッカー)

 

サッカーは「手以外の身体ならボールに触ってもOK」「審判が止めない限りプレイは続く」など分かりやすく物理的なルールで構成されています。ちょっと難しいルールは「オフサイド」くらい。結果、サッカーは言語が違っても身振り手振りで伝えれる事で、英語以外の言語圏でも広まりました。

 

 

対してラグビーやラグビー源流のアメフトのルールは複雑極まりないです。「トライは5点、ゴールキックは2点、ペナルティキックは3点」「ノックストレート=ラインアウトでボールを垂直に投げ入れなかった反則」、アメフトに至っては「25秒以内にプレイをスタート」とか「オフェンスでもポジションによってパスを受けられない無資格レシーバー制度」とか「あの反則は5ヤード後退、この反則は10ヤード後退、それは15ヤード後退」、、、、

 

外国人に伝えるには複雑怪奇過ぎて、無理ですね。

 

このルールの複雑化の源流には、体力勝負のスポーツでも知的に戦略戦術を練るというエリート層=社会的指導層=軍事的観点があることが明らかです。
 

上記図は世界のサッカー協会の色分け図。グリーンランドと西サハラ(独立していない)以外のほぼ全ての国と地域にサッカー協会がある=サッカー競技人口があります。

 

ラグビーは、今現在でも旧大英帝国のイギリス・南アフリカ・オーストラリア・ニュージランドを中心とした英語圏以外の普及はあまり進んでいません。

 

 

さて、今までのフットボールの起源、サッカーとラグビーの分岐などを模式図にしてみました。

 

 

 

次のブログからは、本格的にラグビーの中身をおべんきょします。

フィリップ カレッジリング

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